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青い夜。 [MARGINAL…境界にて。]

雲の多い夜だった。

11月も半ばと言うのにまだ寒さを感じることもない、今年の夏のとてつもない暑さが嫌でも思い出される微かに残った余熱のような暖かい夜。ちょっとばかり熱めの会話と選りどりみどりの家庭風中華料理を一通り楽しんだ後、先輩方と別れてふと、すっかり暗くなった夜空を見上げた。
雲が多いと言っても空全体を覆う厚い雲ではなく、まるで昼間の秋空のように、様々な雲が浮かんでいた。空の高めのところに、独立した羊のような形の雲が、上空を埋め尽くしていた。しかしそれらは羊のように群れるでなく(つまり羊雲のようではなく)、言ってみれば真綿をちぎってまるめてばら撒いたような雲たちで、目線を下ろすと如何にも秋の鰯雲・筋雲が漂うように架かっているのとは対照的に夜空に浮かんでいるのだった。

空の色は深い青。秋の澄んだ青空のまま夜を迎えていた。
空だけ見上げていると、まるで黒いフィルム越しに見た白昼の空のようにも見える。雲がなければまさに「日本晴れ」のような「高い」空の中空に、群れない羊が浮かんでいた。
夜空と言えば漆黒の闇のような空の色もあるだろうが、この空は妙に明るい。繁華街でもなく住宅地とも言えぬ一角で、街の灯りはあるものの、空は広く見上げる方角に視線を妨げる無粋な光源もないのに。それはあくまでも高い高い「青空」なのだ。そして浮かぶ雲もまた、「真っ白」な雲であった。

私は眼が良くないので、満天の星空を知らない。もともと都会っ子でもある。しかし幼少時より空や雲を見るのは好きだった。見えないながらに星空を眺め、ときどき夜空に真の闇を感じぞくっとすることがあり、あとでそれが「コールサック(石炭袋)」と呼ばれるものだと宮澤賢治に教わった。
大気の層を通した空は、真っすぐ宇宙だ。雲の無い高い高い空を見上げ焦点を解放すると、近眼ながらそのまま宇宙が見える気がする。そんなとき、何故か孤独を感じるのだ。世界がすべて切り離されたような、ただひとりで生きて行かなくてはならないような、自己の存在の危うさ、他者との関わりとの隔絶。そう、天気輪のもと、何かに衝かれるように泣き叫んだジョバンニのように。

高い高い空でありながら、今晩の空は明るかった。そして優しかった。
昼間の空の青さは大気に日の光が乱反射して見える色だ。そして雲の白さもまた空中の水蒸気の集まったもの・極小の水滴に光が反射しての色。光は地上からの人工のものかもしれない、いや多分そうなのだろう。太陽を背にした夜でありながらほんのり優しい光を映す空と雲。人工の灯りに地球温暖化など人間の奢りを語ることは簡単であるが、ちっぽけな自分の居る世界は確かに人の作りだした世界で、そしてそれ以前に地球上の総てが作りだしてきた世界だ。そこには生命の繋がりがあり、循環がある。大気の層は地球の息吹、灯りの映る空そして雲はまさにその大気の有りようとも言える。この大地を取り巻く大気と言う厚いベールに生きとし生けるものの息吹を感じ、そのぬくもりが優しいのだ、と思った。
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春の紅葉 [MARGINAL…境界にて。]

ソメイヨシノもヤマザクラも既に葉桜となり、重たげな八重桜の花やヤマブキ、カイドウ、そして早くも植込みのツツジや街路樹のハナミズキが咲き始め、花壇のチューリップやプリムラ、パンジーなどと相まってまさに百花繚乱の季節である。

陽光に煌めき異世界へと誘う桜の花の下、ともすれば上ばかり見てしまっていたが、ちょっと視線を降ろすと燃え立つような赤。
それは家々の生け垣で普段は四角張っている常磐木の若葉。
一斉に芽吹く若い葉の、命の燃焼を感じる赤、と言うより血潮のような紅(くれない)。
それは今までの緑が不自然に思えるくらい木々の表面を覆い尽くし、同じく生け垣として植えられた大輪のツバキの花も霞むほどの圧倒的な色合いでそこにあり、サクラと競合した後もそこに留まり未だ燃え続けている。
若芽が伸び、整っていた表面が乱れたことで炎が立つようにも見える。


紅の炎を燃やすこの中低木常緑樹の名は「ベニカナメモチ」。
「アカメモチ」とも呼ばれる。漢字で書くと「紅要黐」「赤芽黐」。
多分これは「レッドロビン(セイヨウベニカナメモチ)」と言う品種と思われる。
根付きの良さから普通のベニカナメモチから切り替わっているようだ。
この春から初夏にかけての鮮やかな紅葉と管理の楽さから生け垣への使用が増えているようで、気が付くとあちこちで燃える赤い葉が見られる。白い花・赤い実。だがこの樹の本領はやはりこの若葉だ。

秋の紅葉は「錦」、同じ「燃える」でも冬に向かい命の有終の美のような感じなのに対しこの紅葉は生まれ出るエネルギーを感じる。
春と言う季節の持つ、抑圧から解放されたような命の奔流、その象徴のようだ。
街を歩くと、もうここかしこに若い芽がまさに伸びんばかりの姿を見せており、その若葉の間にひっそりと花を咲かせる街路樹たち、より原始に近く細胞の成長が目に見えるようなイチョウ。まるで夢の中でトトロの創り出す森の木々そのもの。あちこちで生命の始動が見てとれる。

狂おしいほどの生命感。じっとしていられない。
木の芽時とは良く言うが、こういったものの人心への影響は計り知れない。
「燃える」は「萌える」。
「萌」が草冠なのはこんな感じを表しているのだろう。
「芽ぐみ」が「恵み」であるように。

「始まり」の季節である。


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朝のイリュージョン [MARGINAL…境界にて。]

数日前の光景。

雨上がりの朝、通勤途上の舗装道路が光を反射する。
そこそこ降って、程良く水を含んだ路面は、(気温はともかく少なくとも日射的には)晩秋の朝日を鏡となって乱反射させる。
冬至を挟んだ数ヶ月、朝の緯度の低い太陽の光は、路面で反射するとちょうどひとの目の位置を直撃する按配だ。
日なたになったあちこちで白く弾き返された光は、まるで地中から湧き出ているようで、場所によっては光の草むらのようでもあり、いつもの通勤風景を異世界のように見せる。

こんなことを考えながら歩く自分は、朝方見ていた夢から強制排除されたのが気に入らず、釈然としないまま無理矢理現実世界と向き合うために仕事場へ向かっていることもあり、ともすれば光の野原で時間を忘れたい欲求に駆られる。
でも噴出する光は眩しく立ち入ることを拒んでいるのだ。
資格無きもの近寄るべからず。
聞こえぬ音が聞こえてくる。
どこか遠くから、漣のような密かな笑い声が聞こえる。
中原中也の詩にあるバスケットボールをする千の天使がそこで笑い合っているような。
光は粒子。揺らぎながら燦々めく。
近寄りたくもあり近寄りがたくもあり気もそぞろながら歩みを進めても、まるで逃げ水のように決して辿り着けないのだった。

そんな、夢の続きのような、朝。


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モデルルーム [MARGINAL…境界にて。]

職場近くで公開されていたとあるマンションのモデルルームがドアを閉ざしてから1ヶ月ほど、週明けの朝に気が付くとプレハブの内側は何もなく、瀟洒なというか似非高級感漂っていたエントランスのあったところに大きな簀の子のような板が打ち付けられていた。
すでにマンションは建ち上がり、多分入居者もほとんど本契約も済ませているだろう。まだ売れ残っているらしく幟が立っているが、オープンルームで実物を確認できるので当然モデルルームの必要はない。

マンションのモデルルームには数ヵ所入ったことがあるが、不思議な空間である。建物の中に作られた建物。外廊下があって玄関があって、代表的な間取り(大体70平米強)の3LDKがそこに展開されている。広告の平面図から立ち上がった部屋がそこに現実に作られていて、訪問者にまるでそこがすでに購入が決まった我が家のような妄想を抱かせようとする。
しかしこれはイリュージョンなのだ。表向きは同じ材質を使い同じ仕様であろうとも、仮にしつらえたものでしかない。一枚壁の裏側には芝居の書き割りのような無為な空間が隠されている。
用が無くなれば即撤去。場所代も馬鹿にならない。かくして一夜の夢の如く、そこにあった「我が家」の幻想はかき消されたように消滅する。外構を残しがらんどうの構造物は、既に「建物」というのも憚られる状態である。ここに何があったのか、もう記憶が消えつつある。ここに「それ」があった数ヶ月が、まるで幻想小説のように、狐にでも化かされたかのように思えてならない。

考えてみれば、私たちはそんな夢の中の出来事を見せられ、現実を妄想しながら「一生一代の買い物」をしてしまうのだ。数字の辻褄さえあえば手に入る妄想。もちろんほとんどの人は嘘と現実の壁なんか分かっていて、モデルルームの出来でマンションを購入してしまうような世間知らずはいないだろうが。

次の週、その外構さえ撤去され、もとの駐車場に戻すべく作業員がブロック塀を組み上げていた。もうひと月もすれば、そこにモデルルームが建っていたことも忘れてしまいそうな、見慣れた風景となるのだろう。

魔法の家。例えば「魔法使いサリー」の家。突然空き地に建ち、ずっとそこにあったかのように古色蒼然として存在し、ある日忽然と姿を消すが、誰もが覚えていない。そこは長いこと空き地のままだったよ、と。
…土地の権利者に確認とかしちゃぁダメですよ。


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夾竹桃 [MARGINAL…境界にて。]

最近街を歩いていて、「サルスベリ」の樹が増えたのに気づく。街なかの夏の風物詩として欠かせない街路樹となった感じである。春先に花咲く「アメリカハナミズキ」同様、ひと頃から急に見かけるようになった。多分、各自治体のまちづくりの一環で季節感を感じる中高木を植えるようになってきた為だろう。
そこでふと気づく。以前、夏のこの時期、今を盛りと咲いていたのは…そう「キョウチクトウ」だったと。

竹のような細長い葉に桃の花のような鮮やかなピンク色の花から「夾竹桃」と名づけられたこの植物は、地中海~インドにかけて原産、江戸時代にインドから中国経由で日本に持ち込まれ、生育も旺盛で潮風にも強く丈夫なため防風・防砂ということで盛んに植えられたらしい。日本では花粉を媒介する虫がいないため実はつかない。排気ガスにも耐性があるので、全国の道路網整備に伴い街路樹として多く利用されてきた。あちこちの有料道路沿いに植えられ、夏の旅行・ドライブ時には否応無くバカンス気分を盛りたててくれる…(参考サイト
夏の日差しと熱波の中で、豊かな葉の量と鮮やかな花色は、鬱陶しくも多湿な東京では暑さが増すばかりではあるが、カラッと晴れ上がった南国の青空の下ではすっかりトロピカルだ。ちょうど’80年代に一世を風靡したイラストレーター・永井博のイラスト(大瀧詠一の名盤「A Long Vacation」のジャケットデザイン、雑誌「FMステーション」表紙イラストで有名となった)で描かれる、たくさんの花をつける樹木を彷彿とさせる。沖縄や宮崎などで植えられているキョウチクトウは、さぞかし青空に輝いていることだろう、と勝手ながら思う。

そんな夏気分満載のキョウチクトウであるが、冒頭のとおり、最近はサルスベリに取って代わられたかのように身近で見かけなくなった。思い立ってネットをあれこれ訪ね歩くと「有毒」の文字が眼に入る。曰く「折れた枝をバーベキューの串に使って中毒死した」の「牛馬が牧草に混じった葉を食べて死んだ」の、かなり激しい記載である。薬効としては打撲に効くが、心臓に強い刺激を与えるので(強心剤にも利用)決して素人処方してはいけない由。(参考サイト
身近においておくには危険極まりない、実際にそんな理由で広島あたりでは市の花をユリノキに変更したという話も拾った。大気汚染の軽減とともに、同じ時期に同じような色合いの華やかな花房をつけるサルスベリ(百日紅)へ徐々に移行していったようだ。
サルスベリにはサルスベリの夏らしさがあるのだが、いまいち繊細と言うか可愛らしすぎて、キョウチクトウの持つ強烈な夏らしさには及ばない、と見かけなくなった今になって思うのだった。
同じキョウチクトウ科の植物には花壇に良く植える日々草や、ハワイでレイにするプルメリアがある。

…しかし先日紹介したエンジェルズ・トランペットと言い、なぜだか目に付くのは毒草ばかりである。


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エンジェルス・トランペット [MARGINAL…境界にて。]

近頃道路沿いの民家で栽培されているのを良く見かけるようになった、「エンジェルス・トランペット」。その名のとおり、天使のラッパとでも言えるような花の形をしている。(参考までにこちらとかこちらとか。)

この「エンジェルス・トランペット」というのは園芸家が最近つけた通称のようであり、正しくは「ブルグマンシア」、和名「木立朝鮮朝顔(キダチチョウセンアサガオ)」。他に「ダチュラ(和名:チョウセンアサガオ)」があり、合わせて「エンジェルス・トランペット」と呼んでいるようだが、ブルグマンシアが下向きに花を咲かせるのに対しダチュラは横向き(夕顔と同じ)に開花するので、天使の吹くラッパならやはり下向きのブルグマンシアのほうだろう。

「天使のラッパ」と言えばイメージが良いらしく、この通称を掲げるようになってから苗の出荷が倍増したらしいが、天使の吹き鳴らすラッパと言えば思い浮かぶのは、あの「ハルマゲドン」。終末思想での大天使ミカエルを迎い入れるあの管の細長いラッパなのは私だけだろうか。
もともと私的には天使に良いイメージを持っていない。神の庇護を良いことに好き勝手に享楽的に生きるもの、というイメージのほうが強い。思い上がりで思いこみ強く正義の御旗を振りかざし断罪するが、自らの意思はさほど持ち合わせず簡単に堕落する…そしてこの世は堕天使=悪魔で満たされる…。

かつて「百億の昼千億の夜(萩尾望都・光瀬龍)」を読みすっかり懐疑的になって以来、宗教を1歩も2歩も離れたところから見るようになっているが(魔女志願者を自称するあたりが(^^;)、どうも「神の意思」はどうであれ、天使なんてものは大層うさんくさく思えてならない。
先日観た映画「コンスタンティン」に出てくる「ハーフ・ブリード」としての天使にもそんな感じが見て取れて面白かったが、超能力をカサに非力な生き物である人間を翻弄するさまは悪魔と同等の悪辣さを感じてしまうのである。ただ悪魔とは違い本質的に「善」ではあるので一歩踏み込むことさえなければ地獄に堕ちることもなく天上での位置をキープできるだけの良心はあるようだが。
(余談だが、最近好きで観ているアニメ「お願いマイメロディ」のマイメロとクロミの関係が天使のイノセントな悪意を垣間見させ面白い。)

話を花に戻す。「エンジェルス・トランペット」には毒がある。触ったら手を洗うべしというくらいだからかなり強いと思われる。ブルグマンシアもそうだがダチュラのほうは「曼荼羅華(マンダラゲ)」と別称されており華岡青洲が麻酔薬として使用したものとして知られている。(参考サイト
同じく「エンジェル」の名を持つ「エンジェル・フィッシュ」も姿形に関わらずかなりどう猛である。梨木果歩の小説「エンジェル・エンジェル・エンジェル」に密かな悪意を秘めた主人公が描かれており、花と言い魚と言い、エンジェル側からみれば旗色悪いことこの上ない。しかし、却って「天使」の本質を突いているようで、「名付けの妙」に感じ入らざるを得ない今日この頃である。


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エジプトで行政官のミイラ発見! [MARGINAL…境界にて。]

今朝の朝日新聞朝刊(朝が3回も(^^;)に載っていた記事。
http://www.asahi.com/culture/update/0121/009.html
あの吉村先生率いるエジプト調査隊が未盗掘の墓、ミイラを発見したということだ。
4000年近くも前の公務員(行政官と書いてあった)の墓らしい。
いったいどんな人物だったのか…どのくらいの身分だったのか、役職、素性など興味津々。副葬品なども気になるところだ。
ミイラと言うと王家、豪族などに限られるような感覚にとらわれていたが、この「セヌウ」なる人はよほどの高位だったのだろうか。
発掘内容の続報が待たれる。

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