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映画「おと・な・り」 [VISUAL&ARTS…観る。]

2009 ジェイ・ストーム
監督:熊澤 尚人  脚本:まなべ ゆきこ  主演:岡田 准一


「近隣騒音」という言葉がある。
街中に住んでいれば否応なく付いてくる。
機械音やら自動車の走行音、繁華街の嬌声。
それは聴力を持つ以上、「音」として受け入れざるを得ない。
また、「音」と言うのは完全に耳を塞がない限り聞こえてしまうやっかいなものだ。
街中の音は酷ければ訴えることもできるし引っ越すこともできる。
しかし「近隣」と言っても、まさに隣近所の一般的な生活音となると、そうもいかない。
お互い様、ということもあり、気になっても、余程じゃなければ耐えるしかない。

さて、とはいえ、ご近所の音がすべて騒音というばかりではない。
慣れ、というのは恐ろしいものだが、あながち慣ればかりでなく、「何の音か」を理解すると聞こえても気にならなくなってくるのだ。もちろん慣れずにイライラの種のままの音がなくなることはないが。

昨今隣人と逢うことは滅多にない生活をしている。管理のしっかりしているマンション住まいということもあって、最低限の近所付き合いといっても敷地内で会ったときに挨拶を交わすくらいで、一歩外へ出たらすぐ隣に住む人でさえ、まったくの他人である。
顔も覚えていない人であるにも関わらず、その他人である隣人の生活音が騒音でもないのに気になるのは、その話声も含む「音」がまったくの無防備さから出されているから、と言ってもよいだろう。
普段は気にして大きな音をだすことは控えていても、ふとした日常会話まで緊張していたら身が持たない。挨拶を交わしているだけでは見えることのない飾らない隣人の生活が垣間見える、そんなナマな音の世界。幸い我が家の隣人は若いファミリーなのだが、その「音世界」に於いては、とても穏やかで微笑ましい。これについては、その巡り合わせに感謝するしかない。

目に見えるものがすべてではない、もうひとつの感覚の世界。それが「音」の世界だ。
聞こえ…いや、「聴」こえてくる音が紡ぎだす世界は音楽にも似て。
実際に会う…いや、「逢」うのとは違った出逢いを生みだす。
むしろ「逢わない」からこその世界。

無理に関わる必然性もなく、ただ隣同士、というだけの2人の「音」による繋がりの世界。
男女ということもあり、お互いのプライバシーを気遣うからこそ敢て会わない、というのもあったろう。
実際、「無防備な自分」を知っている人と顔を合わせるというのは気まずいものだ。
「筒抜け」だからこそ気遣いあう、控え目で小さい「音」の積み重ねが、実は互いに相手を思いやるココロを感じさせる音…気になりつつも気に障らない音、受容された音となっていくのだろう。そこにある音には攻撃性もなく、また嫌悪感もない。

物語が進んでいくうちに隣同士の2人の関係性が変わっていく。
「いつもの音」に異質なものが入りこみ、その変化をもたらしたものがなくなったとき、折しも転機を迎えていた2人の人生は、すでに動き出していた。
出逢いの「偶然」に気づかせたのは音であり声。すでに受容されていた音は、人間の得る外部情報の8割を占める視覚情報を飛び越えダイレクトに記憶を喚び起こす。

ラブストーリーでありながら、それに留まらない脚本・演出の力、ささやかな「音」への気遣い・こだわりが、優しい音の世界を紡いでいく良作を生みだしたのだと思う。


公式HP http://www.oto-na-ri.com/
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映画「クローンは故郷をめざす」 [VISUAL&ARTS…観る。]

2008「クローンは故郷をめざす」製作委員会
監督・脚本:中嶋 莞爾 エグゼクティブ・プロデューサー:ヴィム・ヴェンダース 主演:及川 光博


漆黒の宙で船外活動をするクルー。宙から見える見える美しい地球。
近いうちに確実に訪れるであろう未来、これは紛れもないSFである。
冒頭の研究施設の無機質な映像。
淡々と告げられる優秀な人材の死と人知れず開発されてきたクローン技術。
常に死と隣り合わせにある危険な仕事に就く怜悧な面差しの主人公・耕平。
緊張感のある映像はそのまま耕平の緊張感と使命感を伝えてくる。
その耕平の心の均衡は、自らが原因となった双子の弟の死と言う辛い過去を乗り越えることで保たれてきた。
自責の念を「弟の分も生きて」と言う母の言葉に救われた子ども時代。
そして心に誓う。「僕は死ぬわけにはいかない」。

死ぬわけにいかなかった彼は、クローン再生に同意した。
新技術の確立に焦る科学者たちの周到な策による「不慮の」事故後、思惑通りクローンとして復活した彼は、しかし耕平そのものでありながら「耕平」になり得なかった。
生前記録されたすべての記憶…それは乗り越えていたはずの、すなわち抑制していた辛い記憶を最も強く再生することになってしまった。
そしてクローンは故郷をめざす。

母が帰りたがっていた故郷の家。
「故郷」はまさしく日本的なウェットな風景だ。
風にそよぐススキの原。川のせせらぎ。
最新の技術を誇る無機質な研究所と打ち捨てられる廃屋と。その対比により「人の帰って行く場所」としての「故郷」の景色へさらに強い印象を与える。
帰ってこない優しい母と気弱な弟と過ごした日々。

双子の弟、死んだ自分。そしてクローン。記憶の混乱。
双子と言うモチーフは、クローンと言う複製された「自己」を映す鏡、否、もう一人の「自己」の表出である。自分とは違う自分、しかしその中に自己との同一性を見つけてしまう存在。
「自己」とは何だ。保管されたデータとしての記憶なのか。
その問いかけは、人が人であることを知ってから常に繰り返されてきた問いである。

最初に書いたように、これは紛れもないSFである。
今まで観た「SF」と言われる映像は、どこかよそよそしく描かれてきた気がする。
人間性を否定する技術に対する寓意。これまでの映像作家たちは、強い意志を持った登場人物に困難に立ち向かわせるために、乾いた舞台を用意しゆるぎない意志を乗せる強い演技を求めてきた、と思う。
しかし監督・中嶋莞爾は違う選択をしたのだ。
非倫理的な技術を否定しない。美しい最新映像に乗せた「SF」と言う寓意に、それぞれの人々の「心の揺らぎ」を合わせ、より主題を鮮明にさせる。抑えた演技がそれを見事に表現する。
「生きることって?」「自己とは?」それから「残したい思い」…

姿を消した実は2人目であったクローンに替わり、3人目の彼は、「彼」として完璧に再生された。
そして知る。消えた2人目のことを。
そしてまた、クローンは故郷をめざすのだ。

公式HP http://clone-homeland.com
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映画「大決戦!超ウルトラ8兄弟」 [VISUAL&ARTS…観る。]

「大決戦!超ウルトラ8兄弟」製作委員会(円谷プロダクション 他)
監督:八木 毅 脚本:長谷川 圭一 主演:長野 博

ちょっと、と言うか、相当恥ずかしいタイトルである。
円谷プロが「ウルトラマン」という「文化」を常に子供を対象として提供していることの表われとは思っているが、それにしても…
しかし、主役は平成3部作「ティガ」のダイゴであり、自ら夢を諦めようとしている「大人」へのメッセージを込めた物語である。タイトルこそは子供向けだが内容は昭和40年代から現在までの「すべてのウルトラ世代」に向けたものであった。
もともと「ウルトラシリーズ」は子供向けに作られたものではなかった、と思う。空想科学ドラマ、SFとして、世のセンス・オブ・ワンダー好きのための物語が、その荒唐無稽さから子供たちの絶大な支持を得、はかり知れない影響力を与え、多くの子供たちがその後オタクへの道を突き進んだ…のは置いといて。
第2次ウルトラブームの頃からは、シリーズを重ねるごとに、すでに出来上がっていた「巨大ヒーロー・怪獣もの」=「子供向け」の図式に嵌り込んだか既に「大きいお友達」となっていた世代は苦笑まじりに観てはいたが、それはそれで常に新しい「ウルトラ世代」を生み続けていた。
平成3部作のあと、試行錯誤をしながら様々なパターンのシリーズが作られていったが、その集大成とも言うべき一昨年の「ウルトラマンメビウス」。これまでの、言ってみればある種トンデモナイ、「ウルトラ兄弟」と言う設定をすべて受け入れ、帳尻を合わせ、練り上げられた壮大な世界観、それが称賛を持って迎え入れられたのは記憶に新しい。

さて、今回の設定はさらにパラレルワールドである。平成3部作のうち「ティガ」と「ダイナ」は連続していたが「ガイア」はまったく別の世界であったのを、「ガイア」終了後の劇場版にて同一世界に登場させたのと同じ手法だ。
一昨年の映画「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」ではすんなり登場できた旧ウルトラマンだが、今回は「兄弟」ではない3部作のウルトラマンとの共演であるので簡単に世界はつながらない。それが他の並行宇宙のまったく違う世界の「記憶」を呼び起こす、と言う荒業により実現する。

舞台である「世界」は現実世界と同じように「ウルトラマン」が空想ドラマとして放映されていた世界。昭和41年にすでに小学生くらいであるダイゴたちがまだ演者と同じ30代前後に見えるので、今から15~20年くらい前になるのだろうか。
謎の少女の言葉に導かれ突如現れた侵略者を追って時空間移動をしてきたメビウス=ヒビノミライ。そのピンチ、また世界の危機に「覚醒」する旧ウルトラマンたち。世界と言いつつも舞台である横浜の狭い地域での攻防ではあるが、身近な愛する者を護るため、そしてそれは封印しかけていた自らの夢を実現するための勇気を試される試練という、解り易くも感情移入し易い展開である。

昨年の映画の成功も手伝ってか、まさにオールスター。基本オトコノコの物語なのだが、それぞれのパートナーが勢揃いするとは。そこで気づく。そうだ、ウルトラマンって、ある種の恋愛モノだったんだ~! 魅力的な女性陣はもっぱら支え役ではあるが、みな精神的に自立している。そこらへんも彼女たちの魅力だったんだなぁ、と特に綺麗に歳を重ねている4人に再認識。見習いたいものである(笑)。

セリフ回しや登場人物に盛りだくさんのファンサービス。過去の映像は最小限なのに、オールドファンから若いファンまで「おっ♪」と思わせる設定・映像がちりばめられている。新しい映像を観ているのにとてつもないバックボーンが観る者のなかにあり、記憶がそれらを補完していく、まさに「ウルトラ」ファンのためのお祭り作品なのであった。

観終わって思う。
「ウルトラマン」とは「愛」と「肯定」の物語なのだな、と。
大切な人や世界を護ること、それがシリーズすべての根底にあり、また自分を信じること、正義を信じること、諦めないこと、一貫してブレない主張がある。そこが連綿と続くシリーズの魅力であると同時に、この作品においては、製作者側をも取り込んだ大きな「ウルトラマン」そのものへの「愛」と「肯定」による賜物なのだ、と今更ながら思うのであった。
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映画「落下の王国」 [VISUAL&ARTS…観る。]

原題 The Fall (2006 アメリカ)
監督:ターセム 主演:リー・ペイス

世界遺産を舞台に鮮やかな色彩の乱舞。
すべてロケという、CG全盛の世の中に、金より大事な「時間」を掛けた贅沢な映画である。

よく次に観る作品を選ぶときに、映画館での予告編やフライヤーで目を引くもの、となるのだが、この作品は、なぜか前情報が得られなかった。上映館情報でタイトルを見かけ気になって、邦題だけで19世紀ころの不条理系ファンタジーかな、という薄いイメージを持った。去年観た「パンズ・ラビリンス」のような残酷な美しさを持つ作品かな、とも。しかし、似ているようでちょっと違う、カラッとした色彩鮮やかな空想世界が目の前に…。

舞台は1915年アメリカ。物語はとある娯楽映画のロケ中の様子から始まる。失恋の痛手から自棄的になり、高所より<落下>した際、復帰も危ぶまれる大怪我をしたスタントマン・ロイ。撮影中の映画の場面と現実の事故の様子が入り混じるのはこれから先の物語の暗示か。不思議ファンタジー?との先入観がまず軽くいなされる。
本編は入院先の大きな病院へと場面を移し、腕を怪我した少女アレクサンドリアを中心に物語が進んでいく。父を失い移民としてオレンジ農園で働く母のもと、彼女は5歳にもかかわらず収穫の手伝いに木に登り、そこから<落下>したのだ。
好奇心旺盛な利発な少女は、腕の怪我ということもあり、じっとしていられない。探検ごっこのように病院内をうろうろし、お気に入りの看護師に書いた手紙を2階から<落下>させてしまい、探しに降りたところでそれを拾ったロイに出逢う。想像力豊かなアレクサンドリアと遣り取りするうち、動けないロイは自殺の企てに彼女を利用するために、彼女の気を惹く「物語」を始める…。
「物語」はまったくのロイの思いつきだ。それをアレクサンドリアが頭の中で補完していく。豊かな空想力は、語り手にも還元され、やがて「物語」は共有されていく。

鮮やかな映像はアレクサンドリアが思い描いている世界である。なんでもありな空想世界なはずだが…美しい現実離れした舞台(ロケ地)が実は世界各地に現実にあるものなのである。また、語られる物語は整合性など無縁な思いつきによる荒唐無稽なものなのだが、そこに幼いながらに辛い経験をもつ彼女の記憶がトラウマのように投影され、「死」のイメージとともに残虐性をも帯びるリアリティが追加される。それが煌びやかさとは違う乾いた美しい鮮やかさを下地のように際立たせるのだ。

「物語」は死を焦るロイの苛立ちやアレクサンドリアの戸惑いとともに思わぬ方向に展開していく。
しかしアレクサンドリアの再度の<落下>を機に、ロイの中のわだかまりが解けていく。
空想の「物語」の中にも<落下>のモチーフは散見される。しかし、言葉に囚われて不条理に突き進むことなく、明るいアメリカの空の下、物語は幕を閉じるのだ。アレクサンドリアの無垢な笑顔を残して。


映画公式サイトはこちら
2008.9.28現在、東京近郊では上映が終わってしまいましたが、まだ観られる地域もあるようです。
是非映画館の大きい画面で観てみてください。
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東山魁夷展 詩と旋律―遍歴の山河 [VISUAL&ARTS…観る。]

東京国立近代美術館 2008.3.29~5.18

――目の前に現れた光景…まさしくそれは海であった。
遠く潮騒すら聴こえてくるような。
唐招提寺障壁画、「濤声」。

東山魁夷の絵と言えば国語の教科書で見たひとも多いだろう。
またホテル・銀行等のロビーでお目にかかったひともいるだろう。
叙情的であり精神性に富む作品群は現代日本人の感性にダイレクトにヒットする美学を持っている。印刷されたものはイラストレーションの趣きも否めないが流石に生の作品は訴求力も強い。観覧した昨夜4月18日は朝からの大嵐であったが、夜間開館の閉館1時間前でも多くのひとが来場していた。
大きな絵でも至近距離で佇むひとが何人か。
まるでその世界、その作品の醸す空気に包まれたいとでも言うように、しばし動かぬひと。
静謐でありながら観る者が世界に入り込もうとするのを拒まないのは、作品の持つ力であろうか、そこに居るような錯覚を感じさせるのは、抑えた色数ながら内に引き込むだけでなく外部に向かう華やかさがあるせいだろうか。

生誕100年、没後10年という記念の年。
初めて魁夷の作品に触れたのはいつだったか。まだ10代だったはず。
日本画でありながらヨーロッパ的な(実際北欧・ドイツに取材した作品ではある)、まさに精神世界、心象風景のような作品たちにまぎれもなく直撃されたわけであるが、自分も歳をとってみるとむしろ「京洛四季」連作のほうがしっくりくる。
いずれにせよ現代日本画と言うある種装飾的意匠をとりこんだジャンルならではの表現方法は、単純な「画」であるからこそ力量が問われ、またそれゆえに見る者の「こころ」に直接飛び込んでくるのだろう。
展示は大回顧展ということで点数も多かった。そして展示の最後に冒頭の障壁画。
これだけを観に、もう一度行ってみてもチケット代以上の価値はあると思う。(我ながら卑近だが…)

公式ホームページ→こちら
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映画「潜水服は蝶の夢を見る」 [VISUAL&ARTS…観る。]

原題 Le Scaphandre et le Papillon (2007 フランス=アメリカ) 
監督:ジュリアン・シュナーベル 主演:マチュー・アマルリック

目が覚めたときに見えるもの。
これまでの自分とは違う自分。

「いのち」は「重い」と言われる。
しかし「いのち」ほど「軽い」ものはないのではないだろうか。
風船に詰められた気体、それが「いのち」なのでは、と思う。
水素のように、ヘリウムのように、軽いモノ。
肉体という被膜が破れたとき、死が訪れる。
まれに気体の抜けたガワだけの風船もあるかもしれない。
重いはずの「いのち」は実はあまりにも呆気ない。

主人公は実在の人物。瞬きだけで綴ったエッセイが原作。
「潜水服」はまるで動かなくなった肉体だ。しかし表現する手段を得た彼は「蝶」のように想像力を羽ばたかせる。硬化したゴム風船の中にある軽い軽い気体。それは魂の自由とでも言えるか。

彼は成功者だった。やりたいことを実現させてきた。
しかし、どんな人間にも避けられないもの、それが死。
でもそれ以前に、ひとは一人で生きているのではない。
「家族」と言う不思議な縁がある。
縁とはもちろん血縁だけでなく、友人知人通りすがり、いろいろな関わりはあるが、「家族」とはまったく別なのだ。「家族」と言う「縁」はいかに絶縁したつもりでも切れないものだ、と思う。特に親の存在は。捨てられない絆。それは自分が「老い」を感じて初めて「ほんとうに」気づく。
倒れる前後を通して描かれる彼と彼の父親の関わりは、ストーリーのほんの一部ではあるが、そんな無償の何かを通して「生きていく」と言うことを語りかけてくれる。そう、いかなる人生も「生きていくこと」そのもの。親から子へ伝えられていく何か。彼が父から受け取ったものはまた彼の遺児へと伝わっていくのだろうか。生物としてのヒトの持つ、「いのち」のリレーとして。

それにしてもこの映像の美しさは。
美の国フランスであるゆえか、アーティスト監督の卓越したセンスゆえか。そもそも「美」の世界の住人であった主人公(世界的ファッション雑誌編集長)のセンスさえも伝わってくるようだ。
そして、ひとつひとつの視点のもつ意味が、移動していくさまが、主人公への共感を生んでいく。また、病院スタッフ特に介護にあたる者の描かれ方は、もともとの原作者である主人公の「目」ゆえか。彼らと一緒にいる時間は観客という一傍観者にとっても楽しくさえあったのだ。ひとも絵も、「美しい」ものがたりであった。


原作本はこちら。私は未読です…。
潜水服は蝶の夢を見る潜水服は蝶の夢を見る 
作者: ジャン=ドミニック ボービー
出版社/メーカー: 講談社
発売日: 1998/03/05
メディア: 単行本


アニメ「天元突破グレンラガン」最終話 [VISUAL&ARTS…観る。]

生命とは何か。
それに対しての答えは
「自己複製を行うシステムである。」(「生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891) 」福岡伸一)

とりもなおさずDNAという遺伝情報を、気の遠くなる時間をかけて組み換え変異を続け自己複製しながら紡いでいった結果が現在の地球上の生命である。宇宙が生まれ、地球が生まれ、有機体が生まれ。化学反応による増殖が、いつどこで自己複製に変わったのか、くるくるとそれは螺旋を巻きながら果てしなく複製を繰り返す。今の分子生物学には「利己的な遺伝子」と言う考え方があり、遺伝子そのものは「種の保存」なんてもののためにではなく、「自らの生き残り」しか目的とはしていないとのことだが、それは確かに分子レベルの思考回路があるわけでもなし当然のことだろう。巨大な分子の集積物である生命体=生物が思考を持つためには「脳」という司令塔が必要だからだ。
「人間」は他の生物と比べ特大の脳でもって特異な進化を遂げてきた。しかし昨今は言うに及ばず、「人間とは自然界から生まれたゴミであり、ゴミが地上を埋め尽くす前に滅びるべき」と言ったような考えをする「自然派」な論調をする者も多い。「神の目線」に立つことなど誰にもできないはずなのに。

いつの世のことだか、おそらく遠い未来であろう地球。「神の目線」を持った者たちに抗う者が現れる。彼らは自らの存在意義なんて語らず、「自分が自分であるために」生き死んでいく。進化の過程で意思を持ち、社会を営み、他者の存在を認めそれを愛し、そのためには自己犠牲を厭わないが、あくまでもそれは自分のためなのだ。「誰かのため」という自分のための自己犠牲なのだからこそ自分を顧みないパワーを生み出せる。まさに利己的な遺伝子の力、しかしそれこそが意思の力。それが「生命の容れもの」である人間=螺旋族なのである。
「螺旋」には様々な読み解きができるだろう。無限を表すものとして人類は太古より螺旋を描き続けてきた。(装飾研究の第一人者である鶴岡真弓氏の著作等に詳しい。)コンピューターで数学的に描かれる図形。どこまでも描き続けられる同じ文様はフラクタルでこれもまた自己複製。「螺旋力」とはDNA=生命の遺伝情報の持つ「自己複製能力」のことであり、「生命の容れもの」である人間の肉体の限界を超えて伝えられていく意思そのものなのではないだろうか。

さて。前置きが長くなったが、本日最終回を迎えたアニメ「天元突破グレンラガン」。最初から飛ばしっぱなしで突き抜けたアニメだったが、馬鹿な男の生き様な話かと思ってみていたらどうして、終盤に近づくにつれ「螺旋族」=DNAを持つ生物の代表としての人類の存在意義すら考えさせる超オオブロシキ話になっていた。人間という愚かな生き物。それを殲滅せんとするシステム。神の目線などいらない。「種」の行く末は「種」自らが決めていくのだという明確な意思でもって突き進む。その描き方はまさに破天荒であり劇場的でありそしてそれゆえ気持ちよく突き抜けている。物語の進行に「そんなバカな」はない。すでに第1回目のキャラクターの突っ走り加減で、そんなものは吹き飛んでいる。そして描かれるのはイメージされる全ての螺旋の力でありフラクタルのような入れ子構造になったメカ。ミクロからマクロへ、そして最後は「始まり」である「ラガン」へ戻る。それは物語そのものでもあり、主人公である「穴掘りシモン」は自ら「穴掘りシモン」へ戻っていく。死んでいった多くの同志の遺志(意思)を受け継いで戦ったように、「螺旋」のシンボルである「ドリル」を次世代である若者へ手渡して。
神などいらない、未来は自分たちの力で、と支配から逃れた彼ら。生命とは自己複製するシステムである。そして巨大な脳を持つ人間は意思を持ち、その意思を次世代に伝えることを知っている。遺伝情報と同じように。ラスト、20年後の世界でシモンが道具がうまく使えずにいた子供にちょっとしたコツを教えるシーンがある。そうだ、「オトナ」とはそういうことのできる人間のことだったんだ。

天元突破グレンラガン1 (完全生産限定版)

天元突破グレンラガン1 (完全生産限定版)

  • 出版社/メーカー: アニプレックス
  • 発売日: 2007/07/25
  • メディア: DVD

天元突破グレンラガン1 (通常版)天元突破グレンラガン1 (通常版)
2007.9.30現在3巻まで発売済(以下毎月1巻発売)


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映画「サンシャイン2057」 [VISUAL&ARTS…観る。]

原題 SUNSHINE (2007 イギリス 20世紀フォックス) 
監督:ダニー・ボイル 主演:キリアン・マーフィー

♪ Sunshine on my shoulder makes me happy(by John Denver)
猫でなくても日向ぼっこは幸せな気持ちになれる。
日焼けは嫌だが、夏場、冷房で冷え切った身体を容赦ない日差しのしたに投げ出すと、ジリジリと肌を焼かれることに快感すら感じることもある…私だけかもしれないが。
地球上の生きとし生けるもの総てがなんらかの恩恵を太陽から得ている。
太陽は命の父であり信仰の対象でもある。

物語の舞台は「近未来」。たぶんリアル感を出すために必要だったのだろう。50年後の未来と言うことに意味はない。現在の天文学では太陽の寿命はあと50億年と言われており、黒点の増減により地球環境への影響はあるものの、本作での設定のようにだんだんと非活性化で温度が下がる以前に膨張して熱による破滅がまずやってくるだろう。しかし、この物語のSFとしての寓意はそこにはない。
冷え切った地球からの太陽への眼差し。欲求。命を育むものへの希求がある。

太陽の寿命を少しでも永らえるために人類の文明科学の粋をもって作られたプロジェクト、そしてその宇宙船とクルーたち。使命を果たすことを何より優先する若い優秀な科学者たちである。決して帰り道の保障されていない彼らは、どこか諦めのような悲壮感を隠しながら自らをヒロイズムで奮いたたせているかのようだ。
年長の精神科医は日に日に近づいていく太陽の光を求めてデッキに立つ。フィルターをギリギリまで解放し、火傷と言ってもよいほどの日差しを受ける。焼け死ぬことが本望か、と思われる船外活動時の事故をはじめとする処々のシーン。先行して行方を絶っていた宇宙船のクルーの末期。そしてその亡霊とでも言える存在。
クライマックスにおける太陽の炎と対峙する主人公の表情は、悦楽にも似たものが感じられた。
彼らが恐れていた「太陽に向かって落ちる夢」、実のところ「太陽とひとつになる」ことへの強い願望の裏返しだったのではないだろうか。

観るひとの数だけ解釈がある…とは監督並びに出演者の弁である。
私なりの勝手な解釈をしても許されることだろう。

… … …
ちょっと設定的にブラッドベリ「太陽の黄金の林檎」を思い出し、読み直してみた。
こちらのクルーたちは、短編でもあり、もっとドライだ。目的が「帰る」ことであるという違いはあるが、使命感に諦念を漂わせてはいない。合わせて読むと、映画のタイトルが「サンシャイン」であることの意味が引き立つことだろう。

太陽の黄金の林檎

太陽の黄金の林檎

  • 作者: レイ ブラッドベリ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2006/02
  • メディア: 文庫

短編集。画像の帯にあるのはまた別の映画「サウンド・オブ・サンダー」。
↓手元にあるのはこちら。

太陽の黄金の林檎

太陽の黄金の林檎

  • 作者: レイ・ブラッドベリ
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1976/01
  • メディア: 文庫

追記:DVDでます。
サンシャイン2057

サンシャイン2057

  • 出版社/メーカー: 20世紀フォックスホームエンターテイメントジャパン
  • 発売日: 2007/09/07
  • メディア: DVD

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「納涼茂山狂言祭 2006」東京公演 第1日夜公演 [VISUAL&ARTS…観る。]

東京・千駄ヶ谷 国立能楽堂 9月4日 18:30

前々からきちんと観たかった狂言の舞台。いや、きちんと、と言うか、今まで何度か観ているのがイベントとかホールでとかだったので。
国立能楽堂は初めての場所だ。何かとても敷居が高かった気がする。
今回のチケットはかなり前に購入した。
「お豆腐狂言」を標榜する庶民派一派、茂山家。
能ほど格式ばらず、歌舞伎ほど下世話でない、そんな狂言を伝統を守りつつ柔らかくノリ良く現代人に提供してくれる。もともと狂言は、能の舞台と対で演じられ、観客の心を掴む喜劇である。諧謔を旨とする「お笑い」。伝統芸能としての仕草・装束、だが能面を付けない役者が表情豊かに演じる演目は演芸として成立した当時より繰り返し演じられた日本中世の庶民の泣き笑い譚であり、それはまったく現代人の感覚と変わらない、ということを教えてくれる。

今回の舞台は毎年茂山家がファンサービスのような形で演目のリクエストを受け付け、それによって決まった演目を、大阪で昼夜3回、東京で昼夜3回、全て演目を替え6回で18の演目を行うもの。この日は東京での最初の公演日。
演じられたのは「蝸牛」「鎌腹」「死神」の3本。元々狂言だけで演目を設定するときはあまりない組み合わせだそうである。前2本は伝統的演目でスラップスティックな笑い。最後の長めの「死神」は新作狂言。先月観た現代劇とも通じるシュールでブラックな笑いを提供する。この「死神」は元が落語の題材で、さらにそれはフランスの小咄なのだそう。笑いのエスプリは古今東西変わらないといったところだろうか。
3本とも気負わず楽しめたが、観客もみな同様、まるで現代喜劇を観るのと同じく声を立てて笑って観ている。違うのはカーテンコールにあたるのものがなく、終わればそれまで、と言うところか。
アンケートを書いて外に出る際、なぜか終了後スポンサーよりワンカップ梅酒をいただいた。(ちなみにアンケートには逸平さんが観たいと書いたミーハーな私である。)惜しむらくは流石に3公演通しで観る時間と資力がないことである。

余談。
初めて能楽堂に行くにあたり、何を着ていこうか迷った。着物でも着て行きたかったが、残暑厳しき折り汗だくになるのは間違いなく、流石に浴衣じゃおかしいので、結局普段着をちょっとおしゃれっぽくしただけのカジュアルな格好で出掛けた。
開場前に能楽堂についたが、高齢な方から若い方まで、意外なほど普通の格好で、会社帰りのサラリーマン・OLがそのままの姿で来ていたり若い女性は私同様片肌出したカジュアルな服装だったりしていたので胸をなで下ろしたのでありました。場内はさほど冷房は効いておらず、持っていった上着(ブラウス)は着ずに片肌だしたままの鑑賞とあいなりました。


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舞台「伝統の現在 NEXTIII 眉かくしの霊」 [VISUAL&ARTS…観る。]

昨夜(8/10)、e+の「得チケ」で予約した「伝統の現在 NEXTIII 眉かくしの霊」を観てきた。会場は新宿・紀伊國屋サザンシアター。

狂言と現代劇のコラボで、主演は狂言・茂山逸平、元「東京乾電池」・谷川昭一朗。泉鏡花原作の幻想譚を狂言のおかしみと幽玄さに現代劇の洒脱さを掛け合わせて表現したもので、原作は読んでいるような読んでないような。

舞台はなかなか観る機会を作れず(他に優先しちゃうものが多いので)慣れてないせいか、はたまたこのところエンターテイメントな解かり易いものばかり食していたせいか、この作品のような実験作はどの視点から観ればいいのかちょっと戸惑い気味。いや、そのままを味わえば良いのだろうけれど。
狂言の様式的な諧謔表現と現代喜劇と。泉鏡花の古い言葉がつむぎ出す怪奇幻想世界を一瞬方向性が違うとも思われる「おかしみ」により表現していく。それが不思議な狂気をかもし出す。シンプルでフレキシブルな4組の建具の組み合わせが舞台に迷宮を作りだす。
1時間ちょいの舞台はどんどんその迷宮を進んだあと唐突に終わる。
迷路の果てはえもいわれぬ狂気。そしてそれは「諧謔」そのものでもあった。

造詣どころか基礎知識も乏しい中での鑑賞は、真たるものを看る目を持たないが、素人なりに味わっていければいいかな、と思う。
鏡花は改めて読むことにする。


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